-水がほしい-

1.農民たちは、日でりつづきでこまっていました。

 そのころの大牟田は、大正町通りに海岸がありました。今とくらべたら、田んぼは少なく、水にもこまっていました。大雨のひ害もありましたが、ひでりが続くとすぐに水がたりなくなりこまっていました。とくに、1637年(寛永14年)のひでりにより諏訪・片平村(延命公園南側)では、いねのほがつかず、火をつけてやいてしまったほどでした。

2.代官は、大きなため池を作ろうと決心し、ため池をつくりました。

 水不足を心ぱいした代官の平塚信昌は、「大きなため池をつくろう。」と決心しました。多くの農民のはたらきにより、早鐘の谷に2つの大きなため池ができあがりました。

3.農民たちは、ため池から水を通すめがね橋をがんばってつくりました。

 しかし、こんどは、その水をどう流すかが大きな問題でした。上官の高まりこしてを流さなければならなかったのです。平塚信昌は、そのころ中国から伝わった石づくりの橋をかけてその上に水を通そうと考えました。


<用水路をほる工事>

 大工の田島よざえ門の努力によって、池ができてから10年後の1674年(延宝2年)に、やっと水路ができ上がり、これまでの水不足で苦しんでいた村へもため池の水が流れていくようになりました。

4.めがね橋ができて、農民たちは大よろこびしました。

  そのおかげで、次の年からは、あまりお米がとれなかった村でも、たくさんの米がとれるようになりました。また、このめがね橋は、人や馬が通る道路としても使われました。