大正のはじめごろの話(90年前)


1 町のようす

 そのころ、今とちがって町の中心は、今の五月橋ふきんで市役所、ゆうびん局、けいさつしょなど、この近くにあった。また、大牟田港は、この五月橋の西がわにあった。そのころ五月橋は土の橋で、のちにコンクリートの橋になった。
 大牟田駅は、今の商工会議所の所にあって「テイシャバ」といっていた。駅には人力車のたまり場があって、駅のそばに小川が流れていて、ミソコシをもってフナやメダカをすくっていた。汽車が来るころになると、駅長さんがわざわざ出て来て「もうすぐ汽車の来るけんあぶなかけん、あがってよけとれよ。」と注意してくれた。一日に数回しか汽車はこないもんだから、魚とりの手伝いをしてくれたり、冬は、日なたぼっこしながら、犬のシラミをとっていた。汽車が来る10分か15分前ぐらいになると赤ぼうさんが大きなかねをもって、ガランガランとならすと、駅の近く人はそれから用意しても間に合った。
 そのころの大正町は一面田んぼばかりで、夏はカエルのなき声でにぎわった。そこに太陽館(映画館)ができたのでみんなおどろいた。「あげんか田んぼのまん中、人でんしかつ通らんごたるとこれ、どうしてたてたものかのう。」などいったものだった。

2 乗り物

 自転車があった。人力車や馬車もあった。馬車は、大牟田駅から三川・はやめ・三池に走っていた。車輪が鉄だったので、ガタガタ音をたてていた。あとになってゴムがついた。

3 電とう

 それまでガス灯だったのが、電とうがつくようになった。昼間はつかなくて、夜だけつくのだった。子ども達はめずらしくて、夕がたになると電とうの下に集まって、じいっとつくのを待った。今とちがって、つくときパッと明るくならず、うすぼんやりとついてしだいに光をまして明るくなった。「ついた、ついた」と手をたたいてよろこんだものだった。

4 学校

 そのころ大牟田町には、5つのじんじょう小学校しかなかった。農家が多いため、田植えやいねかりの時になると学校へ赤ん坊をせおってくる生ともあった。服そうは、すべて着物で、はかまをはいて、学生ぼうをかぶっていた。ノートのかわりに本ぐらいの大きさの板のわくに、黒い平たい石板というのを使って、白い石筆で書いては消し、書いては消していた。雪のふる体そうの時間がつらかった。はだしで雪の上をかけ足させられ、いたくてなきだす子もいた。休み時間には、馬のり・おしくらまんじゅう・つかめおに・わ回し・すもう・ゴロゴロあそびなどした。

5 あそび

○木登り…森や林が多く、木登りがさかんだった。夏など木の上がすずしいので、枝と枝の間に板をわたし、ゴザで屋根をつくり、ねころんだりした。○へいたいごっこ…家も少なくあき地が多かった。竹のぼうをてっぽうがわりにして、口でパンパンいいながら、赤白にわかれてせんそうごっこをした。○竹馬…自分でつくっていた。三年生ぐらいは、三十センチぐらいの高さ。青年は屋根ぐらいの高さのものも作っていた。そして、片足で長く乗れるきょうそうや相手をおとすあそびなどやった。このほか、ケンコーケン・イッチッコシ・バチ・ネンギ・ゲタひき・シッケンギョなど。女は、トンキン・ママゴト・ゴンタロウ人形・つなとび・はねつき・たんざくとりなど。冬は雪が多かったので雪合戦をよくやった。

6 物売り

 たいこをたたいてちょうしよく歌って子どもを集めた。その口上がおもしろかった。手でふうきんをならしながら、くすりを売りにくるオチニのくすり屋さんや富山のいれぐすりなど。くすり屋はなくて、だいじな行商人だった。ほかに、日用品・小間物・シャツ・反物・魚・海そうなどにぎやかだった。
 朝早くから、農家の人がしにょうくみとりに、おけをつんだ馬車をひいてきていた。くみとらせた上に、大根二、三本とか白米一、二升などもらっていた。

7 まつり・行事

○初市…農具のほかに花ぼて、アメガタ・米のオコシ・キジ馬
○こくぞうさん…さるはじき・こいのぼり
○ぼん・正月…大正町・有明町などの空き地に、しばい小屋がたって、かるわざ・いなかしばい・ぬけ首・おばけやしき・さるしばい・遠めがね・もの売り店がならんだ。

(森左一郎さんの話をぬき書き-有明新報)